井上紀美子は今年56歳になり、共働きで役所に勤めている。
一人息子の直樹の結婚式が10月3日と決まった。
直樹の結婚が決まったことはうれしいことではあるが、心の中にモヤモヤしたものがくすぶっている。
二人の結婚を祝ってやりたいと思う気持ちと、その結婚式に夫や、義父母と共に参列しなければならないと思うと、気が重いのだ。
「直樹の結婚が10月の3日に決まったわ」と紀美子が言った。
ここは仕事の帰りにたまに立ち寄る喫茶「カサブランカ」。
美也子が珈琲カップを置きながら「そう、良かったじゃない」といったが、浮かぬ顔をしている紀美子を見て、「でもどうしたのよ、良かったじゃないの」と念を押した。
美也子は気の置けない親友の一人である。
「美也子、私ね、直樹の結婚式には参列して祝ってやりたいけれど、夫と、義父母とは一緒に参列したくないの」
「直樹が4歳のとき、40度近い熱を出して夜間救急に走ったことがあるの。私は直樹に付きっ切りで朝まで一睡もしなかったわ、でも、夫は自分の部屋でいびきをかいて寝てしまった。あくる日、お義母さんがきて、『母親の管理が悪いからだ』って怒鳴りつけてね」
「ご主人はかばってくれなかったの」
「あの人が庇ってくれたりするもんですか、スマホをいじくって何もなかったような顔をしていたわ」
「まあ、ひどい話ね」と美也子が言った。
「夫の実家は近くにあるけれど、お義母さんにはほとんどサポートしてもらったことがないわ」
「直樹を妊娠した時,お義母さんに『また男の子かい』と言われたこともあったわ、夫の妹が男児を産んでいたからよ」
「そういうことが積み重なって、今では夫にも、義父母にも、嫌悪感を覚えるの、だから夫と、義父母とは一緒に参列したくないの」
「あのさ、紀美子。その3人と一緒に並んで式に出るのが嫌なのは痛いほどわかる。でもね、ここであなたが欠席したら、あの3人はどう思う?『やっぱりあの嫁は…』って、一生あなたのせいにするわよ。
逆に、あなたが最高に仕立ての良い留袖を着て、誰よりも凛とした笑顔で直樹ちゃんの横に立ってごらんなさいよ。
『この子をここまで立派に育てたのは、夫でも義父母でもない、私です』って、あの3人の前で無言の復讐をしてやるのよ。 母親の完全勝利のステージよ、結婚式は!」
「そうね、持つべきは友達ね。あら、もうこんな時間だわ」紀美子は珈琲カップを置くと、バッグから手帳を取り出した。
「どうしたの?」
「さっそく明日、デパートの衣装室を予約するわ。あの3人の目が潰れるくらい、最高に綺麗で極上の留袖を選んでやるの」
紀美子の目に、30年ぶりに眩しいほどの闘志が灯っていた。
しかし、戦いは一筋縄ではいかなかった。
結婚式の数日前、再び「カサブランカ」に現れた紀美子は、また浮かぬ顔をしていた。
「昨日、衣装室の担当者から電話があったの。……お義母さんも、私の留袖に負けないくらい立派なものに替えたらしいのよ」
「あなたに対抗心丸出しね。作戦の練り直しが必要よ」
二人は珈琲を前に、密かに頭を突き合わせた。
そして、結婚式当日――。
新郎の母として、嫌悪する夫や義父母の隣で冷たい仮面を被りながら席に座っていると、新郎である直樹からの「両親への手紙」が始まった。
『親父、おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう。そして――』
直樹はまっすぐに紀美子を見つめた。
『フルタイムで働きながら、僕が熱を出したときも抱きしめて、誰に何を言われても僕を守ってくれましたね。お母さん、僕を育ててくれたのは、お母さんのその手です。本当に、ありがとう』
隣の夫たちが呆然とする中、紀美子の目から、30年分の涙がこぼれ落ちた。
式の翌日の昼下がり、喫茶「カサブランカ」に美也子と紀美子の姿があった。
「ほら、ここのところ『フルタイムで働きながら~』のくだりよ。胸にジーンときたわ」と美也子が言った。
テーブルの上には「両親への手紙」が置かれている。
「直樹がまっすぐ私の顔をみて言ってくれた時には、私本当に涙が出ちゃったわ」
「私は、直樹の手紙にすこしだけ付け足しただけだけど、直樹も『この方がずっといいし、その通りだよ』って言ってくれたのよ」 二人のいたずらっぽい笑い声が、喫茶「カサブランカ」の午後の店内に、心地よく響いた。
